腐っても負けず嫌いで完璧主義、だからこそ、自分の歪さを受け入れると愛される覚悟もついてくる

その他、使える心理学

腐っても負けず嫌いで完璧主義、だからこそ、自分の歪さを受け入れると愛される覚悟もついてくる

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普段の生活とか仕事とか、恋愛や結婚生活をよきものにするためにできるのが、

「身の程を知ること」

なんだろうなぁと、しみじみ感じたことがありました。


「身の程を知る」って、ネガティブで腐ってる方の私に教えてあげたら多分「殺すぞ」って言ってきそう。笑


でも、そんな喧嘩上等&物騒な話じゃないので、興味を持ってもらえたら嬉しい。


そう。

私の近況の話。


先日、お弟子さん制度の中で開催されている講師トレーニングの制度の、講師役にチャレンジしましたよ。


お恥ずかしいけど、せっかく撮っていただいて嬉しかったので晒すんだ




一定の基準をコンスタントに超えることができたら、ココロノオフィス公認の講師になる、というものであります。

しかし、まだ道のりは長そうだぜ(遠い目)


めちゃくちゃ緊張しましてね(笑)


何を喋っているか自分で分からなくなっている時もあったり、「やらかしたー!」と思ったこともあったけど、

数日たって気持ちの嵐が落ち着き、「みんなのアドバイスをたくさん聞いてまた頑張ろ」と自然と思えたのが、自分としては大変喜ばしく。


そして、講座のアンケートと投げ銭も送っていただきました。

とてもありがたい気持ちでいっぱいです(照)

(追って、またお礼をば)


実はね、1年半くらい前にも講師役にトライしてたのですよ。

しかし、あまりに辛かったから、去年は途中でやめた。笑


やめて、逃げざるを得ない辛さを作ってたのは、

私の中の、隠れた負けず嫌いと完璧主義な性分。


またまたお恥ずかしい話なのですが…


ダメ出しされたり間違ってるって言われたり、おかしいとか変って思われやしないかと不安で不安で仕方なかったり、

思うような成果が出せず、それを認めるのが辛すぎて嫌だったりしたんですよね。


いや、「未熟なんだから当然だし、受け入れろよ」、と自分では思うけど、

この頃は「無価値感から逃げおおせる」が行動原理になっていたので、

叱咤激励を真っ直ぐ受け止めるなんて、とてもできるようなコンディションじゃなかったと思う(笑)


実はね、ここだけの話。


今だから言うけど、お弟子さん制度に入った大きな動機の一つが、


元夫に「ざまあみろ!私の方が社会に貢献していてお前の方がクズや!」って言いたい


だったのよ。

(人の役に立ち、その功績で相手を見下して悪口を言いたいって、どんな矛盾だろうか(笑))


私、元夫から「今のお前に何の価値も魅力もない」と言われたことをずっと根に持ってて。


でも一方で、

意識してからずっと根に持つくらい、「自分には価値も魅力もない」が私の心の奥底に長い間眠っていたと思うんです。


「価値も魅力もない」とかね、受け入れるなんて耐えがたい。


だからか、「じゃあまずは、元夫から潰そう(固い決意)」となり、

その感じのノリを持ったままお弟子さん制度に突撃したため、

そりゃもちろん、他のお弟子カウンセラーも水面下では敵になりますわな(開き直り)


だからこそ、とにかく「ダメなヤツ、変なヤツ、出来が悪いヤツ」と思われるのが嫌で、

何より「価値が無い自分」というのを目の当たりにするのが怖くて怖くて、

そんな怖さから逃げるように、


正しいかどうかに固執して、

出来ない自分を責め立てて、

悪いことをしたら自分を断罪し、

できないってバレたくないから、いい顔をしたり大きく見せようとしたり人との間に壁を作ったり、

助けを借りずに弱みも見せないようにして、

自分の居場所を巡って心の中で戦っていくことに。


やればやる程孤立していく気分だし、誰とも手を取り合えないから周りは敵だらけな気がしてしまったり。

(「敵を全員刈り取りたい、全員風邪ひいて寝込んで欲しい」って思ってた。笑)


以前の講師チャレンジ時に限らず、「失望されたくない、価値が無いなんて受け入れたくない」から人を信頼せずに戦うというパターンは、

私にとっては、「これ以上痛い目を見ずに生き延びるための術」みたいなもので、

家族の中でも、学校や職場でも、結婚生活の中でも、結構やってきていたことだったなぁと改めて思った次第。


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「身の程を知れ」という言葉を、私は、自分を責めるためにたくさん使ってきました。


虚勢を張っているうちに出すぎた見栄のようなものを削り取ろうとしたり、

間違ったことを言って恥をかいたり傷つかないように自己主張を抑えたり、

落ち着きのない自分を大人しくさせるために、できが悪いという意識を植え付けようとしたり。


そうしていると、外からは整っているように見えたり、迷惑をかけない人になったり、良さげな人に見えたりするのだけど、

自信を失った自分、無価値感に震える自分に追い打ちをかけていることになるから、

何も楽しくないし、足らずな部分を無理な頑張りで補おうとあがくことになって、とても苦しいのです。


そんな中。


私、よくピースの又吉さんのYouTubeが好きで観るんですが、

そこで又吉さんが、ものすごく滑った自分のネタのことを、

「僕はこのネタがすごく好きなんですよね~」、とニコニコ笑いながら言っていたんです。


その時に、「これだよ!」と思って。


最初から遠慮したり怖がったりして周りに合わせなくてよい、

自分を大好きでいること、

という生き方を、実際に堂々とやっている人を見て私は感動したのです(笑)


個人的には、「自分を愛する」とか「自分を貫く」ということを意図的にやるって難しいなと感じていたのですが、

そこを乗り切るのには、良し悪しや正しさだけじゃ測れない自分のことを、もっと知ってあげる必要があったんだろうなと私は感じた次第。


私がハマっていたドツボは、

自立の問題であるネガティブな比較と競争かな、と思ったんですね。


痛みから逃げるように成し遂げてきた自立では、

自分を守るために、正しさや良し悪しの枠で自分を縛り付けたり、

新しい世界を楽しんだり何かにチャレンジしたりすることを阻んで、

本当に欲しいものを手に入れることや、人との繋がりを拒むのです。


でも、自分の感覚や感情を、正しさや善悪で判断しなくていいんだなと。

当たり前のことが、とても腑に落ちた(笑)


身の程を知るっていうのは、そういう良し悪しや正しさを手放して、

自分の歪さに対して「ああ私ってこういう形なんだな」と意識して、

優しく触れたり、抱きしめてあげたり、受け入れてあげることだ、と、私は言いたかったのでした。


ここ半年くらいで、勇気を出して「隠していた自分を人に差し出す」という機会がぐんと増えた中で、

嬉々として受け止めてくれた方々や、ダメダメな部分をよしとしてくれたメガネさん(彼氏)がいたことで、

今は、歪な自分の方が、活きが良くて人間らしくて憎めないなぁと思っています。


これって、私にとってはすごく幸せなことなんですよね。

自由を感じられて、安心もできて、嘘をつかなくてもいいし、何より楽しくて嬉しい。


身の程を知って、「今の私で生きていく」っていう覚悟みたいなものが決まれば、


「間違ってもいいじゃん、やり直せば」

「完璧じゃなくても、そこに人間味があっていいじゃない」

「助けてもらえばいい、その時はいっぱい感謝しよう」


なんて思えるようになって、心も軽くなっていくし、人と一緒にいる喜びみたいなものも感じることが出来る。

(私も、今ちょうどこの辺を強化している所なのです(*^^*))


これってまさに、

「私は、愛されていいし、誰かを愛していい」

と自分自身にOKを出せた状態なんだと思うのです。


もちろん、これまでの生き方を変える時って怖さも出てきます。


自分を差し出すのって、本当にね、今までやってこなかった分崖から飛び降りるような怖さがあるかもしれない。

私は時々、反動で自己嫌悪の発作を起こしています(笑)


だからこそ、孤独に戦ってきた人は、まず「身の程」を知って、愛される覚悟を決めよ、ということで!


愛する覚悟でも別にいいんだけど、戦っていた人だったら多分イメージできちゃう気がしてて、

愛される覚悟の方が嫌気がさすと思うから、私はこっちを採用しますー!(笑)


身の程を知るには、自分の生々しい部分をのぞき見してみるといい、

そして、そこから魅力がどんどん発揮されていくよ、

ということで、1/19デトックス会、もまだまだお待ちしております~!



では、またね!(すずきゆうこ)


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